秋・・・実りの季節ですね。
沼津でも秋が深まり、澄んだ朝の空気と、美しい夕陽が心地良い季節となりました。
さて、今回のお話は・・・
地元FM局「FMボイス・キュー 77.7MHz」の担当コーナー「音楽のある暮らし(毎月第4土曜日11:20~)」の9月26日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
今回は、モダンジャズの帝王、マイルス・デイヴィスのお話。
ジャズ界のカリスマとして君臨したその足跡と人物像について、迫ってみようと思います。
まずは、出生について。
1926年5月26日、アメリカのイリノイ州に生まれました。父親は歯科医、母親は音楽教師であり、比較的裕福な家庭であったようです。
そして、音楽教師であった母親の影響で10代よりトランペットに興味を持ち、レッスンを受け始めます。高校時代にはジャズバンドを結成し、セントルイス(イリノイ州)で活動していました。
当時のセントルイスでは多くのジャズライブが行われており、多感な年代に多くの一流プレイヤーの演奏を見て、マイルスは相当な刺激を受けていたようです。
そして・・・マイルスの運命を変える出逢い。
1944年(18歳)のある日、ビバップの創始者チャーリ・パーカー(サックス)とディジー・ガレスビー(トランペット)の演奏をセントルイスで目の当たりにします。
ビバップとは、ジャズの演奏形態のひとつで、曲のテーマ(メロディ)を演奏したあと、コード進行に沿ってメンバーがアドリブ(即興演奏)を順番に演奏して、最後にテーマに戻って終わります。
ビバップはモダンジャズの原型であり、ビバップの台頭によって、ジャズがそれまでのスウィングジャズのようなアンサンブル主体の踊る為の音楽から、ミュージシャンの個性を表現する聴く為の音楽へと変わっていきました。
チャーリ・パーカーとディジー・ガレスビーのビバップにショックを受けたマイルスは、ほどなくニューヨークへの転身を決意。日中はジュリアード音楽院で音楽理論を学ぶ一方、夜はハーレムのクラブで一流ジャズミュージシャンの演奏を聴き刺激を受けていました。
1945年(19歳)、マイルスに幸運が訪れます。ディジー・ガレスビーの後任として、ニューヨークでチャーリー・パーカーとの共演を果たし、チャーリーの元でのビバップからマイルスのキャリアがスタートします。
しかし、チャーリーは麻薬中毒に陥っており、マイルスも巻き込まれるようにして麻薬に手を出してしまい、当時のジャズミュージシャンの典型ともいうような生き方・・・演奏と並行して、麻薬、酒、女性といった快楽にどっぷり漬かった生き方を続けていきます。
1950年代のマイルスは、麻薬にどっぷりと浸かったまま、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ジョン・コルトレーンなど第一線のプレーヤーと共演し、それまでのビバップを更に洗練した演奏スタイル=ハードバップの第一人者として活躍していきます。
(・・・次回へ続く)