2010/04/28 18:30:39
約2ヶ月ぶりの更新です。
ご愛読いただいております皆様、度々ここへ訪問していただいてるのに、ご無沙汰しまして申し訳なく・・・
今日は、“ポップス史上最高のシンガーソングライター”と称される盲目の天才、スティーヴィー・ワンダーについてのお話です。
まずは出生。
1950年5月13日、アメリカ・ミシガン州で誕生します。
しかし、運命のいたづらとでも言いましょうか、保育器内の過量酸素が原因で「未熟児網膜症」になってしまい、生まれてすぐに視力を奪われてしまいます。
スティーヴィーは、物心がついた頃より音楽を生きる支えとし、ピアノやハーモニカ、ドラムなどの演奏をマスター。
9歳の頃には友人とストリートで演奏していました。
そして、歌とハーモニカが評判となって、あるアーティストの目に留まり、振興レーベルであった『モータウン』の社長の前で歌と演奏を披露、その場で契約します。
スティーヴィーが11歳(1961年)の時でした。
『モータウン』は、黒人音楽であったソウルやリズム&ブルースを白人のマーケットへ浸透させることを狙って1959年に設立された、アメリカのレコード・レーベル。
ジャクソン・ファイブやダイアナ・ロスなど、大物黒人アーティストが所属し、1960~70年代に一時代を築いたレーベルです。
スティーヴィーは、モータウンと契約してから2年後、“リトル・スティーヴィー・ワンダー”の名前でアルバムデビューします(アルバム『フィンガーティップス』)。
そしてアルバムのタイトル曲が全米No.1となり、僅か12歳にして“盲目の天才少年”としてスターダムにのし上がり、その後も次々にアルバムをヒットさせ、レーベルの看板ミュージシャンとなりました。
1970年代に入ると、開発されたばかりのシンセサイザー(モーグ)をいち早く導入し、シンセサイザーを駆使しながら、ほとんどの楽器を自分で演奏するスタイルで自由なアルバム作りを進めていきます。
1972年(22歳)にはセルフプロデュースのアルバム『トーキング・ブック』を、1973年には『インナーヴィジョンズ』と傑作を立て続けにリリース。
人種や音楽ジャンルを超越したクロス・オーバーな作風は既に完成しており、シンガーソングライターとしての評価を不動のものにしました。
しかし、アクシデントに見舞われてしまいます。1973年、従兄弟の運転する車に同乗中、交通事故にあって瀕死の重傷を負ってしまいます。
4日間もこん睡状態が続くのですが、奇跡的に意識を取り戻します。
この事故をきっかけに、“自分が生きていることへの感謝の気持ち”を深く持つようになり、その後の作風に影響を与えていきます。

<『キー・オブ・ライフ』のジャケット>
そして、1976年にはスティーヴィーの最高傑作と評価される『キー・オブ・ライフ』を発表。
全米チャート14週No.1の大ヒットとなり、グラミー賞では最優秀アルバム賞をはじめ4部門を受賞、1970年代のポップスを象徴する不朽の名盤となりました。
(次回へつづく)
ご愛読いただいております皆様、度々ここへ訪問していただいてるのに、ご無沙汰しまして申し訳なく・・・
今日は、“ポップス史上最高のシンガーソングライター”と称される盲目の天才、スティーヴィー・ワンダーについてのお話です。
まずは出生。
1950年5月13日、アメリカ・ミシガン州で誕生します。
しかし、運命のいたづらとでも言いましょうか、保育器内の過量酸素が原因で「未熟児網膜症」になってしまい、生まれてすぐに視力を奪われてしまいます。
スティーヴィーは、物心がついた頃より音楽を生きる支えとし、ピアノやハーモニカ、ドラムなどの演奏をマスター。
9歳の頃には友人とストリートで演奏していました。
そして、歌とハーモニカが評判となって、あるアーティストの目に留まり、振興レーベルであった『モータウン』の社長の前で歌と演奏を披露、その場で契約します。
スティーヴィーが11歳(1961年)の時でした。
『モータウン』は、黒人音楽であったソウルやリズム&ブルースを白人のマーケットへ浸透させることを狙って1959年に設立された、アメリカのレコード・レーベル。
ジャクソン・ファイブやダイアナ・ロスなど、大物黒人アーティストが所属し、1960~70年代に一時代を築いたレーベルです。
スティーヴィーは、モータウンと契約してから2年後、“リトル・スティーヴィー・ワンダー”の名前でアルバムデビューします(アルバム『フィンガーティップス』)。
そしてアルバムのタイトル曲が全米No.1となり、僅か12歳にして“盲目の天才少年”としてスターダムにのし上がり、その後も次々にアルバムをヒットさせ、レーベルの看板ミュージシャンとなりました。
1970年代に入ると、開発されたばかりのシンセサイザー(モーグ)をいち早く導入し、シンセサイザーを駆使しながら、ほとんどの楽器を自分で演奏するスタイルで自由なアルバム作りを進めていきます。
1972年(22歳)にはセルフプロデュースのアルバム『トーキング・ブック』を、1973年には『インナーヴィジョンズ』と傑作を立て続けにリリース。
人種や音楽ジャンルを超越したクロス・オーバーな作風は既に完成しており、シンガーソングライターとしての評価を不動のものにしました。
しかし、アクシデントに見舞われてしまいます。1973年、従兄弟の運転する車に同乗中、交通事故にあって瀕死の重傷を負ってしまいます。
4日間もこん睡状態が続くのですが、奇跡的に意識を取り戻します。
この事故をきっかけに、“自分が生きていることへの感謝の気持ち”を深く持つようになり、その後の作風に影響を与えていきます。
<『キー・オブ・ライフ』のジャケット>
そして、1976年にはスティーヴィーの最高傑作と評価される『キー・オブ・ライフ』を発表。
全米チャート14週No.1の大ヒットとなり、グラミー賞では最優秀アルバム賞をはじめ4部門を受賞、1970年代のポップスを象徴する不朽の名盤となりました。
(次回へつづく)
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