2009/03/07 17:39:55
前回の続きです。
では、カーペンターズの音楽的な魅力について。
まずは何といっても、カレンの“アルト・ボイス”です。
カレンは3オクターブの声域を持っていましたが、当時のポップス界ではアルト歌手は殆ど存在しなかったのと、もともとカレンの歌声は低音に特徴があったことから、敢えて低音のメロディーラインが用いられました。
余談ですが、カレン自身は“歌えるドラマー”が理想だったようです。しかし、小柄だったカレンがライブでドラムを演奏すると、ドラムセットの陰に隠れてよく見えなかったことと、ヴォーカルへの要求が増えたことにより、徐々にドラムを演奏しなくなりました。
次に、リチャードのアレンジです。
大半の曲のアレンジはリチャードが担当しており、クラシックの要素を用いたクオリティの高いアレンジは、楽曲の個性を更に引き立たせたのでした。
当時の音楽評論化は、カーペンターズの音楽を「退屈で甘ったるい」、「ソフトすぎる」と批判していたそうですが、カレンの切なく美しいアルト・ボイスとリチャードの完璧といっていいアレンジや作曲により、次第に耳の肥えたリスナー達の支持を得たのです。
そして、二人の個性は、健全で清潔なアメリカン・ポップスを歌う、理想的な“アメリカ中流階級の代表”としてのイメージを確立し、一躍スターダムへのし上がります。
デビュー・シングル「遥かなる影」の後、「雨の日と月曜日は」や「スーパー・スター」、「シング」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」など大ヒットを連発し、1970年代のアメリカポップス界の顔となりました。
ところが1977年頃になるとディスコ・ブームが台頭します。カーペンターズのようなアダルト・コンテンポラリーの曲は、徐々にラジオでオンエアされる機会が減っていきました。リリースするシングルやアルバムのセールスが、徐々に下降線を辿り始めます。
また、度重なるコンサート・ツアーやレコーディングなどの過密スケジュールが、二人をむしばんでいきます。カレンは強迫観念的に無理なダイエットをするようになり、それが原因で拒食症になります。リチャードは催眠薬を多投して中毒に陥り、演奏に悪影響を及ぼすようになりました。
カレンが30歳になった1980年、不動産実業家とスピード結婚を果たしますが、1年で挫折し別居状態となり、拒食症とあわせて心身ともにカレンをむしばんでいくのでした。
そしてカレンの拒食症は深刻なものとなり、リハビリの甲斐なく、1983年2月4日、32歳で返らぬ人となります。
カレンの死と同時に、カーペンターズの活動も終焉を迎えました。
カーペンターズは、1970年代のアメリカの象徴の一つであり、アメリカン・ポップスのスタンダードです。
成長の時代で新しいものを求めていった1970年代に、「イエスタディ・ワンス・モア」や多くのカバー曲に代表されるような、時代に逆行した懐古的なスタイルでメジャーになった、数少ないアーティストでした。
二人は純粋に自分達の音楽スタイルを追及して、個性を貫き通しました。活動の後半には時代に合わず低迷した時期もあったのですが、一貫して演奏スタイルを変えませんでした。それが、結果的にはスタンダードとして今日に高く評価されることとなったのです。
時代に流されず軸のブレないものこそ、時代を超えて愛されるもの。
新しいものが出尽くして閉塞感が満ちているこの時代・・・カーペンターズから教えられることが多くあるような気がしてなりません。
カレンのはかなく切ないヴォーカルとゆるぎないリチャードの楽曲に、時流や周りの批判、環境に流されずに初志貫徹されてきた、力強いポリシーを感じるのです。
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