1966年8月のアメリカツアーを最後にライブ活動を停止したビートルズは、スタジオでのレコーディング活動に没頭し、自分達の音楽性を追及する活動を始めます。
それまでの、ライブで再現することを前提としたストレートなロックン・ロールやバラードを中心とした音作りから、多重録音や管弦楽器・民族楽器を導入した楽曲重視の音作りへと変化しました。
そして、その実験的な試みは、“ポップス音楽の金字塔”といわれる1967年のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で芸術に高められました。このアルバムはグラミー賞で4部門を受賞し、ビートルズの最高傑作となります。
続く1967年のアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」では、ポップ・サイケデリック路線を新たに提示するなど、メンバー自らが自らの才能を持ってアイドルを脱皮し、アーティストとしての飛躍を遂げたのでした。
ところが、バンドの要(かなめ)であったマネージャーのブライアン・エプスタインが、同じ年に睡眠薬の多投によって死去。以降、メンバー間のバランスが崩れて個々の活動に傾倒し、次第に方向性が分かれていきます。
ジョン・レノン ・・・ 前衛的芸術家オノ・ヨーコとの芸術活動や平和活動
ポール・マッカートニー ・・・ 新人アーティストの育成
ジョージ・ハリスン ・・・ インド音楽やインド思想への傾倒
リンゴ・スター ・・・ 映画俳優
といった具合です。
そして、1969年頃になると音楽性の違いが決定的となり、「ゲット・バック・セッション」といわれる最後のセッションとアルバム「アビイ・ロード」を発表した後、解散します。
ビートルズは、とにかく偉大なバンドでした。その8年間の功績をまとめ、終わりにしたいと思います。
①音楽活動面での画期的な試み
多重録音やオーケストラとの共演などレコーディング面での新しい試みや、プロモーションビデオの製作、スタジアムでのコンサートなど。
②ポピュラー音楽への影響力
カヴァーされる曲、またビートルズに触発されて生まれたアーティストは数知れない。現在、第一線で活躍する世界中のアーティストが、多かれ少なかれ何らかの音楽的影響を受けている。
③さまざまな音楽ジャンルの融合
カントリーからゴスペル、フォークソング、クラシックやジャズ、レゲエなど、あらゆる音楽をポップスとして昇華し、ポップスを芸術の域に高めた。
いよいよ冬本番、風邪に負けずに年を終えたいものですね。
さて、今回は地元FM局「エフエムみしま・かんなみ(FMボイス・キュー 77.7MHz)」さんの番組「すまいるトレイン(9:00~13:00)」のコーナー「音楽のある暮らし(11:20~)」の11月22日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
今回は、歴代最高のバンド“THE BEATLES”の1962年のデビューから1970年の解散までの、その8年間の功績をたどってみたいと思います。
その偉大なバンドは、1960年にイギリスの港町リヴァプールで結成されました。
バンド名の由来は、昆虫の“BEETLES(カブトムシの複数形)”と音楽の“BEAT(打楽器を叩く)”を合わせた造語です。
メンバーは、ジョン・レノン(ヴォーカル/ギター)、ポール・マッカートニー(ヴォーカル/ベース)、ジョージ・ハリスン(リードギター)、リンゴ・スター(ドラム)の不動の4人でした。
8年間の活動期間中に公式発表された213曲のうち、その8割以上をジョン・レノンまたはポール・マッカートニーが作詞作曲し、結成当初の「どちらか一方が単独に作った曲でも連名で発表する」といった約束どおり、“レノン=マッカートニー”とクレジットされています。
純粋な二人の共作は、実際は十数曲程度といわれ、それらの曲は実際にジョンかポールのどちらがリード・ヴォーカルを取っているかで、ある程度判断できます。
また、ジョージ・ハリスンも中期以降は作曲しており、20曲程度を作詞作曲しました。つまり、3人のシンガーソング・ライターが存在したバンドでした。
アマチュア時代は、ライブバンドとして主にドイツのハンブルグでライブ活動を行っていました。
そして、1962年8月には先述のメンバーに固定され、10月にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でイギリスデビュー。翌年にはファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」を発表します。このデビューシングルとアルバムの爆発的なヒットとともにイギリス中が熱狂し、社会現象となりました。
そして、イギリスデビュー3年後の1964年に、シングル「抱きしめたい」がアメリカで大ヒット。イギリスを凌ぐ熱狂ぶりで、アメリカでもまたたく間に社会現象となります。
1964年4月のアメリカのヒット・チャートでは、5位までの曲がビートルズ・ナンバーで、トップ100のうち14曲がビートルズ・ナンバー、また1964年の年間53週のうち19週の1位がビートルズ・ナンバーであったり、アメリカのTV番組「エド・サリバンショー」に出演し72%の視聴率を記録するという、異常なまでの熱狂ぶりでした。
その後、世界各国で爆発的な人気を誇りライブ・ツアーを行いますが、メンバー自身はライブ重視の活動に疑問を持つようになっていました。
あまりのファンの熱狂ぶりに(相当な絶叫ぶりであったそうです)メンバーはまともに演奏が出来ず、音楽性を追求できる活動状態ではなかったのと、過酷なスケジュールやホテルでのカンヅメ生活に嫌気が差していたのです、
1965年に発表された「ヘルプ!」は、こうした理想と現実のギャップに苦しんだメンバーのメッセージでした。
(次回へ続く・・・)
前回の続きです。
パリへ移り住み、パリ音楽界で高い評価を得たショパンの前に、ある女性との再会がありました。
その相手は、第二の恋人となる“マリア・ヴォジンスキ”。
マリアはショパンの幼なじみであり、家族ぐるみで付き合っていた同じポーランド出身の貴族の娘でした。ショパンは26歳のとき、マリアに求婚します。
しかし、この頃からショパンは当時は不治の病であった肺結核にさいなまれており(その後ショパンは肺結核と闘いながら生きていくことになります)、ショパンの病弱さや身分の違いを認めなかった(ショパンは平民でした)マリアの両親に強く反対され、婚約は認められませんでした。
マリアとの破局の悲しみに沈んでいた頃、パリの社交界で第三の恋人“ジョルジュ・サンド”と出逢います。
サンドはパリで活躍していた女流作家で、一度は結婚して2人の子どもを持ち、活発な正確でスキャンダルの多い女性であり、内気で繊細であったショパンとは全く逆の性格の持ち主でした。
最初は、ショパンのサンドに対する印象はあまり良くなかったようですが、社交界で顔を合わせる度に次第に引き寄せられていったのです。
サンドは、肺結核であったショパンの療養や、作曲に専念できる環境を整え、ショパンのパトロンとして音楽活動を支え、「バラード4番」や「英雄ポロネーズ」など多くの傑作が生まれることとなります。
しかし、一途で純情派であったショパンと、エネルギッシュで開放的であったサンドでは、余りにも恋愛間が違いすぎ、次第に行き違いの多くなった二人は、9年間の交際の後についに破局を迎えます。
そして、3年後の39歳で、ショパンはその短い生涯を終えます。
ショパンは、人との愛情や友情に多くのエネルギーを費やした“情”の人でした。
ショパンの作品のあちこちに漂う哀愁や、ドラマティックで歌うようなメロディは、その切ない恋愛への愛情表現であったり、肺結核の闘病生活のストレスや苦しみからの解放であったり、ショパンの行き場のない感情がエネルギーの源となっていたのです。
人が誰しも持ち合わせている「悲しみ」や「報われない気持ち」が、天才音楽家によって音楽として昇華されたもの、つまり、クラシック界の“ブルース”、それがショパン作品の魅力ではないでしょうか?
だからこそ、時代を超えて心に染みるフレーズが多く、現代においても多くの共感を得るのではないかと思います。
ショパンが使用していた同型のプレイエル(フランス)のピアノ(左側)
ショパンが愛用したジョルジュ・サンド邸のプレイエルのピアノ(右側)
プレイエルピアノの詳しい情報はこちら↓
http://www.pianoshop.co.jp/import/pleyel.html
富士山も雪化粧を始め、冬の訪れを少しずつ感じる季節となりました。
さて、今回は地元FM局の「エフエムみしま・かんなみ(FMボイス・キュー 77.7MHz)」さんの番組「すまいるトレイン(9:00~13:00)」のコーナー「音楽のある暮らし(11:20~)」10月25日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
今回は、“ピアノの詩人”ショパンの人物像と作品の魅力について。
まず始めにお断りいたしますと・・・番組が15分枠で話をするボリュームが限られますので、生粋のショパンファンの皆様にとっては物足りない内容かと思いますが、ご容赦下さい。
フレデリック・フランソワ・ショパンは、ロマン派音楽の時代を代表するポーランド出身の作曲家・ピアニストです。39年の短い生涯のなかで多くの作品を世に送り出しましたが、そのほとんどがピアノ曲であり、その音楽人生をピアノと共に過ごした音楽家です。
1810年3月1日、ポーランドで生まれたショパンは、4歳よりピアノを習い始めますが、7歳の頃には既に作曲を始めています(この辺から凡人とはやっぱり違います)。そして8歳のときには社交界で演奏を始めており、ポーランド社交界では“第2のモーツァルトの登場”といわれました(ちなみに、“神童”モーツァルトは6歳で演奏活動を始めています)。
16歳のときにワルシャワ音楽院に入学しますが、同じ音楽院の学生でソプラノ歌手であった「コンスタンツィア」という女性に心を奪われます。ところが、音楽院のマドンナ的存在であったコンスタンツィアのファンは多く、ナイーブであったショパンは彼女をただ傍観するのみ。結局は、気持ちすら打ち明けることができなかったそうです。この思いは作品で昇華されており、「ピアノ協奏曲 第2番 第2楽章」などがそれにあたるといわれています。
19歳でワルシャワ音楽院を首席で卒業した後、ウィーンの音楽界で華々しくデビューしますが、活動が思うように続かず21歳のときにパリ音楽界への転身を決意します。
そしてパリへの道中、故郷ワルシャワのロシア支配に対する革命が失敗に終わったことを知ります。ロシア軍に占領されてしまった故郷の両親や兄弟、友人への心配と、絶望、怒りが込み上げ、それまでにない激しい作品が誕生しました。それが「革命のエチュード」です。
・・・続きは次回へ。