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<第5話 幻の名器“オオハシピアノ”>

大橋ピアノ研究所の創業者、大橋幡岩(おおはしはたいわ)氏は、「図面ができると音が聴こえる」という天才ピアノ職人でした。

日本楽器(現ヤマハ)に13歳の若さで入社し、技術責任者であった河合小市氏(後に独立し、河合楽器製作所を創設)のもとで才能が開花し、小市と並び称される存在になりました。

その後、労働争議を経て低コスト・大量生産へ方針転換するヤマハに反発した幡岩氏は、理想のピアノ作りを求めて独立します。

1948年には浜松楽器工業に招へいされディアパソンピアノの設計・製造を開始。1958年、同社が河合楽器製作所に吸収合併されたのを機に「大橋ピアノ研究所」を創設。幻の名器“オオハシピアノ”の制作にとりかかります。

「自分の名前を付けられないようなピアノは作るな」と弟子達を叱咤激励し、自らの名を冠したピアノ“オオハシピアノ”。採算を度外視し、手間を惜しまず、幡岩氏の才能と厳選された素材、職人達の手作りによるピアノは、幡岩氏が晩年にようやく到達した、理想のピアノの完成形でした。“和製ベヒシュタイン”といわれたそのピアノは、豊潤で透明度の高い音色と、演奏者の表現に素直に応える繊細なタッチが特徴です。

大橋ピアノ研究所は、1980年に幡岩氏が84歳で逝去したのち、2代目が引き継ぐも1995年に急逝、惜しまれつつも自主廃業します。創業から37年間で4639台のみが生産されましたが、今や“幻の名器”となっています。


オオハシピアノ NO.132EW

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<第4話 国産ピアノの誕生>

19世紀半ばにピアノのメカニズムはヨーロッパで完成の域に達し、その技術は日本にも伝播していきました。

1897(明治30)年、浜松で日本楽器製造(現ヤマハ)を設立し、オルガン製造を行っていた山葉寅楠(やまは とらくす)は、欧米のピアノメーカーを模範とし、1900(明治33)年に国産第1号のアップライトピアノを完成させます。その後、当時すでに最先端のメーカーであったドイツのベヒシュタイン社から技術指導を受け、ヨーロッパのピアノを模範として改良を加えていきます。

また、日本楽器製造の技術者であった河合小市(かわい こいち)は、その後独立して河合楽器製作所を設立。小市を慕う多くの技術者が賛同し、一大メーカーに成長していきました。

ベヒシュタイン(ドイツ)やスタインウェイ(アメリカ)のピアノは、国産ピアノ誕生期から現在に至るまで、国産ピアノの模範として多大な影響を与えています。

そして、第二次世界大戦を経て日本経済が高度成長を遂げると同時に、国産ピアノは大量生産の時代を迎えます。

1965(昭和40)年にはヤマハが世界一規模のアップライトピアノ工場を、1980(昭和55)年にはカワイが世界一規模のグランドピアノ工場を設立。国産ピアノはアメリカ、ヨーロッパをはじめ世界各国に輸出され、現在では生産量トップ規模を誇る“ピアノ大国”となりました。



日比谷松本楼(東京都千代田区)に現存する国産第1号のピアノ

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<第3話 演奏家の要求に応えて発達>

産業革命を経て、ヨーロッパの市民階級に普及していったピアノ。その発達の背景には、名ピアニストの存在がありました。

19世紀ロマン派の超絶技巧派ピアニスト、フランツ・リストは、激しい演奏ゆえ演奏会でピアノを壊してしまうことでも知られていました。まだ発達途上にあった当時のピアノは、リストの演奏に絶えうる耐久性を備えていなかったのです。

当時の音楽界を代表するピアニストであり、スター的存在であったリストの演奏に耐えうるピアノ、リストの要求を満たすピアノを製作することがピアノメーカーの命題となり、ベヒシュタイン社(ドイツ)、ベーゼンドルファー社(オーストリア)は、耐久性の高い優れたピアノを世に送り出しました。

また、フランスを拠点として活躍したフレデリック・ショパンは、繊細できらびやかな音を奏でるプレイエル社(フランス)のピアノを生涯弾き続け、数多くの名曲を残すとともに、ピアノの発展に大きく寄与しました。

現在でもこれらのメーカーはピアノを生産しており、当時のピアニスト達やピアノ職人達の息吹を今に伝えています。

(ベヒシュタイン社・ベーゼンドルファー社・プレイエル社の詳細についてご興味のある方は、こちらをご覧下さい / 注:パソコン用URLですので、携帯電話からは閲覧出来ません)

リストやショパンの時代を経て、19世紀半ばにはピアノのメカニズムはヨーロッパで完成の域に達し、世界各国へ波及していくのでした。


1800年代後半のベヒシュタイン
後ろの絵画はリストの肖像画

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<第2話 産業革命を経て進化>


1709年に発明された“音の強弱がつく大型チェンバロ”=ピアノですが、音量が小さくて音域も狭く、連続打鍵が非常に難しいなど、当時の作曲家や演奏家の要望に応えられるものではありませんでした。

バロック期には、晩年のバッハが国王の前でピアノを演奏した史実が残っている程度で、ピアノが公の場で演奏された記録は殆ど残っていないようです。

古典派の時代になり産業革命を経て、ピアノはようやく市民階級に普及していきます。演奏様式もサロンでの小規模なものからホールでの大規模なものに変わり、音域や音量にさまざまな改良が加えられていきます。

モーツァルトやベートーヴェンがピアノで作曲や演奏を始めるなど、しだいに作曲家や演奏家に受け入れるようになったピアノは、19世紀ロマン派の時代、ショパンやリストの時代になって、いよいよ完成に近づいていきます。


1814年ブロードウッド製ピアノ
ベートーヴェンが晩年愛用したものと同型

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まずは・・・

“ピアノ物語”と題しまして、ピアノの歴史について掲載していきたいと思います。



<第1話 1709年に誕生>


7オクターブ半の広い音域を持ち、音楽の3要素であるメロディ、リズム、ハーモニーを同時に表現できる“楽器の王様”ピアノ。

そのピアノの祖先は、弦を爪ではじいて音を出す「チェンバロ(ハープシコード)」です。そのチェンバロを、弦をたたいて音を出す仕組みに変え、現在のピアノの原型を発明したのが、イタリアの宮廷音楽家、バルトロメオ・クリストフォリ。1709年のことでした。

チェンバロとピアノの大きな違いは、音に強弱がつけられるかどうか。発明された楽器は“クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ”と呼ばれ、言葉の意味する通り「強弱のつくチェンバロ」でした。

鍵盤の数も、現在の88に対し当時は49。構造もまだ貧弱で、当時の音楽家には受け入れられず、鍵盤楽器の主流は依然としてチェンバロのままでした。

ピアノが現在の形になるまでには、それから1世紀半の時を待たなければならないのでした。


クリストフォリのピアノ(復刻品)

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