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前回の続きです。
1976年に名盤『キー・オブ・ライフ』を発表し、黄金期を迎えたスティーヴィー・ワンダー。
1980年代に入っても、『イン・スクエア・サークル』などのオリジナルアルバムのリリースをはじめ、映画のサントラや、マイケル・ジャクソン、ディオンヌ・ワーウィックなど他のアーティストへの楽曲提供を意欲的に行っていきます。
1984年に発表されたシングル『心の愛』は、もとは日本人フォークデュオのブレッド&バターのために書かれた曲でしたが、映画「ウーマン・イン・レッド」のサントラに急きょ収録されることになり、スティーヴィー自身で歌うことになり全米No.1シングルとなったそうです。
1985年にはエチオピア難民救済チャリティー"USA for AFRICA”に参加。
1989年にはロックの殿堂入りを果たします。
最近では、2009年12月、音楽活動と同時進行で取り組んできた数々の平和活動、慈善活動が評価され、国連平和大使に任命されています。
次に、スティーヴィー・ワンダーの音楽性とその魅力について。
まずは何といっても、洗練されたソングライティングと音楽性です。
作品のクオリティに厳しいことで有名で、これまでお蔵入りした楽曲は数千曲にのぼるといわれています。
アルバム制作の際は、収録する曲数の10倍の曲を作曲するそうで、名盤『キー・オブ・ライフ』ではストックしてあった約1000曲のなかから選曲したそうです。
また、ピアノやシンセサイザーをはじめとして、ハーモニカ、ドラム、ベースなどの楽器を一人でこなすマルチプレイヤーでもあり、それぞれの楽器の特性を知り尽くしたソングライティングは、作品のクオリティを高める大きな要因になっていたようです。
次は、独特の歌唱と、ビートにあわせて体を左右に振るパフォーマンスです。
思わず共感してしまう愛らしさと、曲や詩、人柄から感じさせる大きな人間愛。
1980年代の絶頂期に、日本の全盲の中学生との交流がきっかけで仙台の市立中学校を訪問し、歌を披露したという逸話があります。
最後に、盲目が故の非凡な音楽センスです。
人種やジャンルの壁は、目が不自由であったスティーヴィーにとっては全く感性のないものでした。
単なるブラックミュージックの枠を越え、ソウルやジャズ、レゲエ、ロックなど、あらゆるジャンルを違和感無く自分の音楽として昇華する作風に、影響を受けてきたアーティストは数知れないと思います。
音楽には、演奏者の人間性が反映されます。
おごり、傲慢さ、苦しみや、優しさ、元気、愛、主義・主張・・・サウンドやパフォーマンスに、恐ろしいぐらいに出てきます。
スティーヴィーの楽曲は人間愛や政治色の強いものが多く、誰でも手放しで共感できる楽曲が多いのが、大きな魅力だと思います。
ご愛読いただいております皆様、度々ここへ訪問していただいてるのに、ご無沙汰しまして申し訳なく・・・
今日は、“ポップス史上最高のシンガーソングライター”と称される盲目の天才、スティーヴィー・ワンダーについてのお話です。
まずは出生。
1950年5月13日、アメリカ・ミシガン州で誕生します。
しかし、運命のいたづらとでも言いましょうか、保育器内の過量酸素が原因で「未熟児網膜症」になってしまい、生まれてすぐに視力を奪われてしまいます。
スティーヴィーは、物心がついた頃より音楽を生きる支えとし、ピアノやハーモニカ、ドラムなどの演奏をマスター。
9歳の頃には友人とストリートで演奏していました。
そして、歌とハーモニカが評判となって、あるアーティストの目に留まり、振興レーベルであった『モータウン』の社長の前で歌と演奏を披露、その場で契約します。
スティーヴィーが11歳(1961年)の時でした。
『モータウン』は、黒人音楽であったソウルやリズム&ブルースを白人のマーケットへ浸透させることを狙って1959年に設立された、アメリカのレコード・レーベル。
ジャクソン・ファイブやダイアナ・ロスなど、大物黒人アーティストが所属し、1960~70年代に一時代を築いたレーベルです。
スティーヴィーは、モータウンと契約してから2年後、“リトル・スティーヴィー・ワンダー”の名前でアルバムデビューします(アルバム『フィンガーティップス』)。
そしてアルバムのタイトル曲が全米No.1となり、僅か12歳にして“盲目の天才少年”としてスターダムにのし上がり、その後も次々にアルバムをヒットさせ、レーベルの看板ミュージシャンとなりました。
1970年代に入ると、開発されたばかりのシンセサイザー(モーグ)をいち早く導入し、シンセサイザーを駆使しながら、ほとんどの楽器を自分で演奏するスタイルで自由なアルバム作りを進めていきます。
1972年(22歳)にはセルフプロデュースのアルバム『トーキング・ブック』を、1973年には『インナーヴィジョンズ』と傑作を立て続けにリリース。
人種や音楽ジャンルを超越したクロス・オーバーな作風は既に完成しており、シンガーソングライターとしての評価を不動のものにしました。
しかし、アクシデントに見舞われてしまいます。1973年、従兄弟の運転する車に同乗中、交通事故にあって瀕死の重傷を負ってしまいます。
4日間もこん睡状態が続くのですが、奇跡的に意識を取り戻します。
この事故をきっかけに、“自分が生きていることへの感謝の気持ち”を深く持つようになり、その後の作風に影響を与えていきます。
<『キー・オブ・ライフ』のジャケット>
そして、1976年にはスティーヴィーの最高傑作と評価される『キー・オブ・ライフ』を発表。
全米チャート14週No.1の大ヒットとなり、グラミー賞では最優秀アルバム賞をはじめ4部門を受賞、1970年代のポップスを象徴する不朽の名盤となりました。
(次回へつづく)
1982年の「スリラー」の世界的成功の後、名実ともに“King of Pop”としての活躍が続きます。
1985年(27歳)には、エチオピア難民救済チャリティー「USA for AFRICA」へ参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」をライオネル・リッチーと合作。
1987年(29歳)には、クインシー・ジョーンズのプロデュースでアルバム「BAD」をリリース。
前作「スリラー」の世界的成功のプレッシャーを跳ねのけ、前作のクオリティを更に磨き上げ、高い評価を得ます。ビルボードではタイトルナンバー「BAD」をはじめ5曲が連続1位を記録し、全世界で2800万枚というビッグセールスを記録しました。
イギリスの大女優エリザベス・テイラーによって“King of Pop”と称され、「スリラー」「BAD」の2枚のアルバムで世界のトップスターに上り詰めた存在でしたが、その地位に落ち着くことをせず、その後もどんどん新しい挑戦を続けます。
1991年以降は、それまでのクインシー・ジョーンズとのタッグを解消し、マイケル自身とプロデューサーによる共同プロデュースによって、「DANGEROUS」以降のアルバムを次々にリリース。唯一無二の音楽性とパフォーマンス、高いクオリティの楽曲に、更に磨きをかけていきました。
その後の活動は余りにも多岐に渡り枚挙にいとまがなく、ここでは割愛します。
そして・・・突然の死。
2009年6月25日、心臓麻痺により自宅で心配停止状態となり、帰らぬ人となります。
死因は、CNNによると専属医が処方していた麻酔薬が起因していると報道されています。記憶に新しい、ショッキングな出来事でした。
次に、マイケルの音楽性について。
【 オリジナリティの高いヴォーカル + クオリティの高い楽曲 + パフォーマンス 】
これがマイケルの魅力です。
マイケルの天才的な歌唱力と、ソウル、R&B、ハードロックなど多くのジャンルをポップスに融合させたクオリティの高い曲、それに、ムーン・ウォークやバックダンサーの導入などダンスパフォーマンスを駆使したスピード感あふれるライブ・パフォーマンス。
サウンド面でもパフォーマンス面でも、現在の全世界のアーティストに与えた影響は計り知れません。
次に、マイケルの人物像について。
その派手なパフォーマンスとは裏腹に、実はシャイでナーバスで、相当の恥ずかしがりやでした。
名盤「スリラー」のレコーディングの際に、恥ずかしさをしのぐためにスタジオの電灯を消し、ソファーの影でレコーディングしていたという逸話もあります。
また、その優しく利用されやすい性格のため、ゴシップ記事やメディアでの揶揄はハンパじゃないぐらい多く、マイケル自身はそれに相当苦しめられていたようです(しばしば曲で歌っています)。
金銭目的で訴えられることが多く、その数はなんと1500件以上。ちなみに、子供への性的虐待を訴えられた裁判は、無罪判決でした。
献身的な性格であったことも良く知られており、「USA for AFRICA」をはじめ、アメリカ同時多発テロ被災者救済チャリティーや、カトリーナ(ハリケーン)被災者救済チャリティーなど、関わったチャリティーやチャリティーソングのリリースは数多く、寄付金も膨大な額に上ります。
世界各地でも慈善活動を行い、世界中の不幸な子供達への“ヒール・ザ・ワールド基金”を立ち上げています。
最後に、マイケルの人間性について。
ポップス界のトップに君臨しながらも、マイケルは純粋な心を常に持ち続けていました。
自宅に遊園地と動物園を併設したり(「ネバーランド」)、やることの規模は大き過ぎますが・・・)
完璧である音楽やダンスとは裏腹に、純粋であるが為に持ち合わせる、〈人としての弱さやもろさ〉に共感する部分は非常に多いです。
マイケルのコアなファンは、結局のところマイケルの人間性が好きであり、「マイケル・ジャクソン」という人物そのもののファンである人がほとんどなのです。
今回も、つたない長文を最後までお読みいただき、有難うございました。
富士の峰も雪化粧を終え、冬の足音を間近に感じるこの頃です。
今日は、ギネスで『史上最も成功したエンターティナー』として認定される史上最高のシンガー、マイケル・ジャクソンについてのお話。
余りにも有名で話題性に富んだ人物であり個性的なため、ゴシップや中傷も多く、誤ったイメージで捉えている人も少なくないと思います。
その輝かしいキャリアと人物像について、ご紹介したいと思います。
まずは出生から。
1958年8月29日、インディアナ州(アメリカ)の黒人街で10人兄弟姉妹の8番目、6男として誕生します。
父親は製鉄所のクレーン操縦士で貧しい家庭であったようですが、バンドのギタリストとしてのキャリアを持っていた父親の影響で、音楽の道へ進んでいく事になります。
父親が大切にしまっていたギターを兄弟で隠れて弾くようになり、その演奏をこっそり聴いていた父親は息子達の演奏が上手いことに気付きます。
そして、貧しさから抜け出せるかもしれないという期待から、息子達へ歌の訓練を始めました。
マイケルも、父親にみそめられて歌を始めることになったのでした。
<ジャクソン5(一番右がマイケル)>
そして、マイケルが5歳のとき、兄弟で結成したバンドのヴォーカルを担当するようになり、地元のナイトクラブやイベントで演奏を始めて徐々に名前が知られるようになり、1966年(8歳)のときに“ジャクソン5(ファイブ)”として活動を開始しました。
ジャクソン5は2年間の下積みを経て、名門レーベル『モータウン』と契約。
デビュー曲“アイ・ウォント・ユー・バック(帰ってほしいの)”でメジャーデビューを果たし、マイケルはリードヴォーカルとして天才児ぶりを発揮。
瞬く間に全米チャート1位を獲得し、華々しいデビューを果たしました。
さらに、続く“ABC”などデビューより4曲連続で1位を獲得し、ジャクソン5は当時の10代アイドルバンド(いわゆるボーイ・バンド)の典型として、黒人アイドルグループとしては初めて白人にも受け入れられた存在となったのでした。
1975年にはレーベルをエピックへ変更してグループ名を“ザ・ジャクソンズ”に改名し、セルフプロデュースによって活躍を続けます。
グループと並行してソロ活動を行っていたマイケルですが、名プロデューサー、クインシー・ジョーンズにみそめられて1978年(21歳)頃からソロ活動を本格化させます。
1979年に制作された初のソロアルバム『オフ・ザ・ウォール』では、それまでのジャクソン5やザ・ジャクソンズでの天才少年ヴォーカリストのイメージから見事に脱却し、時代を感じさせるソウル色の強いポップスが評価され、全世界で2000万枚のセールスを記録する大ヒットとなります。
そして・・・ポップスの金字塔となるアルバムが誕生します。
1982年(24歳)にクインシー・ジョーンズのプロデュースで制作されたアルバム、“スリラー”です。
<“スリラー”のアルバムジャケット>
前作『オフ・ザ・ウォール』でのソウル色は為りを潜め、時代を先取りした斬新な楽曲とアレンジ、マイケルのオリジナリティの高いヴォーカルを前面に押し出した作風です。
このアルバムで打ち出された、それまでのプロモーションビデオの概念を変える、“ショートフィルム(短編映画)”といわれる、映像効果やダンスを盛り込んだ映像と、完成度の高い楽曲やアレンジは、その後の80年代ポップスの方向性を決定づけるほどのインパクトを与えたのでした。
ちなみに、現在のプロモーションビデオでは、リードシンガーのバックでダンサーがダンスするという映像は当たり前ですが、このシーンの原点となったのが、この当時のマイケルのプロモーションビデオでした。
“スリラー”は全米チャートで37週に渡り1位を記録し、同年のグラミー賞では史上最多の8部門を独占。
現在でもアルバム売上の世界記録となっています(ギネス認定、1億400万枚以上)。
<次回へ続く・・・>
麻薬、酒、女といった快楽にどっぷりと浸かり、当時のジャズ・ミュージシャンの典型ともいうような生き様ながらも、ジャズ・シーンでの第一線で活躍するマイルスに、突然の悲報が飛び込んできます。
1954年、チャーリー・パーカーが麻薬中毒によって、34歳の若さでこの世を去ります。
“モダン・ジャズの父”といわれ、自分が追い求めていた偉大なジャズメンの、あまりにも早すぎる死。
マイルスにとっては、相当ショックであったのは間違いなく、これをきっかけに麻薬との決別を決意するのです。
ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス、バド・パウエルなど、チャーリー・パーカー以外にも、麻薬による精神の高揚に溺れてしまい命を落としてしまったジャズメンは多く存在しました。
しかし、実質上の白人社会であった当時のアメリカでは黒人が多方面で活躍し始め、徐々に社会的地位を認められるようになっていた時代であり、ジャズメン達も精神的な自立を求めて麻薬離れを始めていたのです。
その後のマイルスは、ビバップを始めとしたそれまでの過激で個人テクニック重視のジャズから、オシャレで控えめ、アンサンブルを盛り込んだ演奏スタイル=“クール・ジャズ”を提唱していきます。
また、ソロの演奏スタイルも、それまでの個性重視で緊張感の高い演奏から、曲のテーマやメロディを重視し、それに沿って演奏するスタイル=“モード”を提唱していきます。
また、1960年代には、エレクトリック・ピアノやエレキ・ギターといった電子楽器や、8ビートのリズムをジャズへ大胆に取り入れ、その後の1970年代のフュージョン・ブームのさきがけとなり、1980年代には、ロック、ポップス、ファンク、ヒップホップといった時代を先取るジャンルを積極的に取り入れ、オリジナリティの高い音楽へ昇華していきました。
そして、その偉大なジャズメンは、誰も残すことの出来ない数々の大きな足跡を残し、1991年9月28日、65歳で永眠します。
次に、マイルスの人物像と音楽性について。
マイルスのトレードマークといえば、まずは歌うようなミュート・トランペットです。
ビバップという激しく超絶的な技巧がもてはやされていた時代に登場し、実は不器用で技巧的な演奏が得意ではなかったマイルスは、独自のプレイスタイルやジャンルを確立し、個性で技術を見事にカバーしていきます。
そして、唯一無二のマイルスサウンドを確立させ、後に“ジャズの帝王”と呼ばれるまでの存在になったのでした。
また、マイルスは時代の最先端(ヒップ)へのこだわりを持ち、ステージ衣装や車、ライフスタイルまで常に最先端を行くことを意識していました。サウンドについても、ジャンルへのこだわりは持たず、若手ミュージシャンをどんどん登用していき、常に最も新しい音楽を意識した音づくりを追及していました。
マイルスの魅力は、ズバリ・・・
バックメンバーの洗練された音づくり+マイルスの人臭い演奏
このギャップの心地良さにあります。
強力なバンドメンバーによるタイトな演奏に、マイルスの人間味やカリスマが調和する絶妙な音のバランスが、非常に心地良いのです。
そして、時代を試行錯誤する緊張感、つまり、時代の最先端を意識した実験的なサウンドが生み出すスリル感を常に生み出していたのが、マイルスの凄みです。音楽やその時代背景を理解すればするほど、そのスリリングな演奏が楽しめるのではないかと思います。
秋・・・実りの季節ですね。
沼津でも秋が深まり、澄んだ朝の空気と、美しい夕陽が心地良い季節となりました。
さて、今回のお話は・・・
地元FM局「FMボイス・キュー 77.7MHz」の担当コーナー「音楽のある暮らし(毎月第4土曜日11:20~)」の9月26日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
今回は、モダンジャズの帝王、マイルス・デイヴィスのお話。
ジャズ界のカリスマとして君臨したその足跡と人物像について、迫ってみようと思います。
まずは、出生について。
1926年5月26日、アメリカのイリノイ州に生まれました。父親は歯科医、母親は音楽教師であり、比較的裕福な家庭であったようです。
そして、音楽教師であった母親の影響で10代よりトランペットに興味を持ち、レッスンを受け始めます。高校時代にはジャズバンドを結成し、セントルイス(イリノイ州)で活動していました。
当時のセントルイスでは多くのジャズライブが行われており、多感な年代に多くの一流プレイヤーの演奏を見て、マイルスは相当な刺激を受けていたようです。
そして・・・マイルスの運命を変える出逢い。
1944年(18歳)のある日、ビバップの創始者チャーリ・パーカー(サックス)とディジー・ガレスビー(トランペット)の演奏をセントルイスで目の当たりにします。
ビバップとは、ジャズの演奏形態のひとつで、曲のテーマ(メロディ)を演奏したあと、コード進行に沿ってメンバーがアドリブ(即興演奏)を順番に演奏して、最後にテーマに戻って終わります。
ビバップはモダンジャズの原型であり、ビバップの台頭によって、ジャズがそれまでのスウィングジャズのようなアンサンブル主体の踊る為の音楽から、ミュージシャンの個性を表現する聴く為の音楽へと変わっていきました。
チャーリ・パーカーとディジー・ガレスビーのビバップにショックを受けたマイルスは、ほどなくニューヨークへの転身を決意。日中はジュリアード音楽院で音楽理論を学ぶ一方、夜はハーレムのクラブで一流ジャズミュージシャンの演奏を聴き刺激を受けていました。
1945年(19歳)、マイルスに幸運が訪れます。ディジー・ガレスビーの後任として、ニューヨークでチャーリー・パーカーとの共演を果たし、チャーリーの元でのビバップからマイルスのキャリアがスタートします。
しかし、チャーリーは麻薬中毒に陥っており、マイルスも巻き込まれるようにして麻薬に手を出してしまい、当時のジャズミュージシャンの典型ともいうような生き方・・・演奏と並行して、麻薬、酒、女性といった快楽にどっぷり漬かった生き方を続けていきます。
1950年代のマイルスは、麻薬にどっぷりと浸かったまま、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ジョン・コルトレーンなど第一線のプレーヤーと共演し、それまでのビバップを更に洗練した演奏スタイル=ハードバップの第一人者として活躍していきます。
(・・・次回へ続く)
前回の続きです。
では、カーペンターズの音楽的な魅力について。
まずは何といっても、カレンの“アルト・ボイス”です。
カレンは3オクターブの声域を持っていましたが、当時のポップス界ではアルト歌手は殆ど存在しなかったのと、もともとカレンの歌声は低音に特徴があったことから、敢えて低音のメロディーラインが用いられました。
余談ですが、カレン自身は“歌えるドラマー”が理想だったようです。しかし、小柄だったカレンがライブでドラムを演奏すると、ドラムセットの陰に隠れてよく見えなかったことと、ヴォーカルへの要求が増えたことにより、徐々にドラムを演奏しなくなりました。
次に、リチャードのアレンジです。
大半の曲のアレンジはリチャードが担当しており、クラシックの要素を用いたクオリティの高いアレンジは、楽曲の個性を更に引き立たせたのでした。
当時の音楽評論化は、カーペンターズの音楽を「退屈で甘ったるい」、「ソフトすぎる」と批判していたそうですが、カレンの切なく美しいアルト・ボイスとリチャードの完璧といっていいアレンジや作曲により、次第に耳の肥えたリスナー達の支持を得たのです。
そして、二人の個性は、健全で清潔なアメリカン・ポップスを歌う、理想的な“アメリカ中流階級の代表”としてのイメージを確立し、一躍スターダムへのし上がります。
デビュー・シングル「遥かなる影」の後、「雨の日と月曜日は」や「スーパー・スター」、「シング」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」など大ヒットを連発し、1970年代のアメリカポップス界の顔となりました。
ところが1977年頃になるとディスコ・ブームが台頭します。カーペンターズのようなアダルト・コンテンポラリーの曲は、徐々にラジオでオンエアされる機会が減っていきました。リリースするシングルやアルバムのセールスが、徐々に下降線を辿り始めます。
また、度重なるコンサート・ツアーやレコーディングなどの過密スケジュールが、二人をむしばんでいきます。カレンは強迫観念的に無理なダイエットをするようになり、それが原因で拒食症になります。リチャードは催眠薬を多投して中毒に陥り、演奏に悪影響を及ぼすようになりました。
カレンが30歳になった1980年、不動産実業家とスピード結婚を果たしますが、1年で挫折し別居状態となり、拒食症とあわせて心身ともにカレンをむしばんでいくのでした。
そしてカレンの拒食症は深刻なものとなり、リハビリの甲斐なく、1983年2月4日、32歳で返らぬ人となります。
カレンの死と同時に、カーペンターズの活動も終焉を迎えました。
カーペンターズは、1970年代のアメリカの象徴の一つであり、アメリカン・ポップスのスタンダードです。
成長の時代で新しいものを求めていった1970年代に、「イエスタディ・ワンス・モア」や多くのカバー曲に代表されるような、時代に逆行した懐古的なスタイルでメジャーになった、数少ないアーティストでした。
二人は純粋に自分達の音楽スタイルを追及して、個性を貫き通しました。活動の後半には時代に合わず低迷した時期もあったのですが、一貫して演奏スタイルを変えませんでした。それが、結果的にはスタンダードとして今日に高く評価されることとなったのです。
時代に流されず軸のブレないものこそ、時代を超えて愛されるもの。
新しいものが出尽くして閉塞感が満ちているこの時代・・・カーペンターズから教えられることが多くあるような気がしてなりません。
カレンのはかなく切ないヴォーカルとゆるぎないリチャードの楽曲に、時流や周りの批判、環境に流されずに初志貫徹されてきた、力強いポリシーを感じるのです。
さて、今日は地元FM局「エフエムみしま・かんなみ(FMボイス・キュー 77.7MHz)」さんの番組「すまいるトレイン(9:00~13:00)」のコーナー「音楽のある暮らし(11:20~)」の1月24日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
この番組は毎月第4土曜日の月イチ番組なんですが、早いものでこの放送で10回目を迎えました。
約20分の番組で、パーソナリティの小坂真智子さんの絶妙なフォローをいただきながら、毎回楽しく放送させていただいております。
受信できる地域にお住まいの皆様は、ぜひ一度、お聴き下さい。
今回は、70年代アメリカンポップスの代名詞“カーペンターズ”についてのお話。
1969年の結成から1983年の活動停止までの足跡と、その魅力について迫りたいと思います。
カーペンターズは、兄リチャード・カーペンターと妹カレン・カーペンターによる兄妹デュオです。
兄リチャード(1946年生まれ)は真面目で純粋な性格であり、幼少の頃よりピアノを始め、16歳にレコーディングを経験するなど学生時代から音楽活動を行っていました。
一方、妹カレン(1950年生まれ)は外向的で活発な性格であったそうで、スポーツ少女でした。高校でたまたま参加したマーチングバンドでドラムを始め、才能を発揮します。
カレンがドラムを始めた1年後には、兄妹はベーシストを加えたトリオのジャズ・バンドを結成。地元のバンドコンテストで優勝しレコード会社との契約を結ぶも、当時の流行とは程遠いスタイルであった演奏がプロデューサーに受け入れられず、デビューに至りませんでした。
その後、兄妹は4年間の下積み活動を行います。多くのレコード会社にデモテープを送り続け、ついにレコード会社との契約に成功します。1969年にアルバム「オファリング」でデビューを飾り、このアルバムよりリリースされたシングルでビートルズのカヴァー曲「涙の乗車券」がまずまずのヒットを記録しました。
そして、時を同じくして、当時アメリカポップス界で売れっ子だったソングライターでプロデューサー、バート・バカラックの目に留まります。
これが大きな転機となり、デビュー2年目の1970年にバカラックの作曲によるシングル「遥かなる影(Close To You)」が全米チャートNo.1を記録し、この年のグラミー賞では最優秀新人賞を獲得しました。
その後リリースした「雨の日と月曜日は」「スーパースター」「シング」「プリーズ・ミスター・ポストマン」などが次々と大ヒットを記録し、一躍スターダムへとのし上がります。
(・・・次回へ続く)
前回の続きです。
では、ベートーヴェンの人物像について。
次のようなエピソードがあります。
●身長は167cmぐらいの小柄(西洋人にしては)で、筋肉質のがっしりした体格であった。
●肌は浅黒く荒れていて、ハンサムではなかった。
●親切で無邪気かと思えば、激しく怒りだしたりと、感情の起伏の激しい人であった。
●情愛の深い人であったが、ケチで非社交的、頑固、ドSな性格であった。
●神経質で風呂と洗濯を好んでいたが、部屋は散らかっていた。
●生涯で70回以上の引越しをした。
●川魚とコーヒーを好み、コーヒーは決まった数量の豆(60粒だったそうです)を数えて飲んでいた。
やはり、天才と変わり者は紙一重、というところでしょうか?
20代後半より始まった難聴が悪化し、晩年の約10年間はほぼ聴こえない状態であったそうですが、これに加えて慢性の下痢と腹痛に悩まされていたそうです。
残されていたベートーヴェン本人の毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されており、体内に相当な量の鉛が蓄積されていたことがわかっていて、これが難聴や体調、精神状態へ悪影響を及ぼしていたとも考えられています。
この体内の鉛は、重工業化が進み公害汚染されていたライン川の川魚や、中世ヨーロッパで食品添加物として使われていた酢酸鉛などが原因ではないかと言われています。ベートーヴェンの難聴は人災でしょうか?
次にベートーヴェンの作風とピアノとの関係について。
ベートーヴェンは、ピアノ音楽を大成させた作曲家です。幼い頃に父親に叩き込まれたピアノへの愛着と、当時の市民革命によるピアノの市民層への普及、産業革命によるピアノの構造的な発達によって、ピアノをフィーチャーした多くの作品が生み出されました。ちなみに、ベートーヴェンの138作品のうち、65作品がピアノのための作品です。
ピアノは、バロック期にチェンバロの発展型として発明されましたが、当初は楽器として構造や性能が貧弱であり、バッハの時代には音楽家に認めてもらえませんでした。古典派の時代になり、構造や性能が飛躍的に進化し、ようやく音楽家に広く演奏されるようになったのです。
また、古典派音楽の集大成ともいえる、完成度の高い9曲の交響曲を生み出し(第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」など)、交響曲に初めて歌を導入する(第9番「合唱」)など、後世の音楽家に多大な影響を及ぼしました。
最後に、ベートーヴェン作品の魅力について。
ベートーヴェンは、初めて自分の為に作曲した音楽家であると言われています。バッハやハイドン、モーツァルトなど、それ以前の音楽家は王族や貴族、またはスポンサーの依頼によって作曲していましたが、ベートーヴェンは自分の喜びや悲しみ、怒り、苦悩といった感情を、自分のために作品で自由に表現しました。
それまでの風景や思想、宗教をモチーフにした崇高な音楽より、一人の音楽家の生々しい等身大の感情を表現した音楽を世に現したのです。
いわば、現状を打開しようとする強い感情を高い芸術性でストレートに表現した、クラシック時代の“ロック”だったのです。
ベートーヴェンの時代のピアノ
ブロードウッド(イギリス)製
ペダルが発明された当初のピアノで、今とは違って脚に「逆ハの字型」につけられています。
新しい年も早や2週間が経過しましたが、皆様どのようにお過ごしでしょうか?
さて、今日は地元FM局「エフエムみしま・かんなみ(FMボイス・キュー 77.7MHz)」さんの番組「すまいるトレイン(9:00~13:00)」のコーナー「音楽のある暮らし(11:20~)」の12月27日(土)放送分より、お話をさせていただこうと思います。
今回は、ヨーロッパ古典派音楽を代表する大作曲家、ベートーヴェンについてのお話。その偉大な足跡や人物像、ピアノとの関わり合いについてお話したいと思います。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年にドイツのボンで誕生します。父親ヨハンは宮廷に仕えるテノール歌手でしたが、アルコール依存症により生計は苦しかったようです。
その父親は、4歳の頃よりベートーヴェンにピアノレッスンを施します。父親の思いは、6歳より演奏旅行をして“神童”の名を欲しいままにしていたモーツァルトの幼少時代とわが子を重ね、“第二のモーツァルト”に仕立てたかったようです。大変厳しいレッスンだったようで、ベートーヴェンは体罰を受けて涙を流しながらピアノを弾いていたとも。
そして7歳のとき、ドイツのケルンで初めての演奏会を開きます。
父親の影響により、ベートーヴェンの憧れの人はモーツァルトでした。16歳でウィーンに旅行で滞在したとき、憧れのモーツァルトと出会い才能を認められて弟子入りを決め、ウィーンでの音楽活動を始めようとしますが、故郷の母親が亡くなり、生計を支えるためにやむなくボンに戻るのでした。
22歳のとき、チャンスが訪れます。ボンに滞在していたハイドンに才能を認められ、ウィーンでの弟子入りを認められたのです。これを機にベートーヴェンはウィーンに移り音楽活動をスタートし、ピアノの名手として活躍、徐々に作品も高い評価を得ます。
ところが20代後半になると、ベートーヴェンを難聴が襲い、音楽家にとって命ともいえる耳が聞こえなくなっていきます。絶望の淵に立たされ30代には自殺も考えますが、音の聴こえない世界と闘いながら幾多の名作を世に残し、古典派音楽の中心的人物としての地位を確立した、偉大な音楽家だったのです。
ここで、ベートーヴェンの人物像について。
一般的には、難聴と闘いながら音楽活動を続けた「苦悩の人」「努力の人」としてのイメージが強いベートーヴェンですが・・・実は相当の変わり者であったようですね。
続きは、次回にお話ししたいと思います。